坊主山の桜ヶ丘銅鐸

桜ヶ丘銅鐸

国宝 桜ヶ丘銅鐸どうたく銅戈どうか

~太古の歴史に思いを馳せながら出土地をめぐり、アイスロードをのんびり下る~

2022年5月1日

年初に、郷土史家の方から「神戸市にも国宝の銅鐸と銅戈が出土したところがある」と、情報を頂いた。
詳しく聞くと近くの坊主山の山中とのことで、6年前に一度読図の練習に出かけた場所でもあり行って見るとことにした。

実は、「国宝」の出土地保存を、史家のグループが神戸市に働きかけているようだが、あれこれ理由をつけて重い腰を中々上げようとしない。外面と箱ものには強いが、芸術・文化には弱い神戸市らしい。

出典によると、この場所が本来の山名は「神岡(カミカ)」と呼ばれ、神庭、神於山など銅鐸出土地には何故か「神」という字がついた地名が多いのが特徴とある。弥生時代に思いを馳せながら、あわよくば二匹目のどじょうをと、下心丸出しで出土地周辺をうろつくも当然収穫は無い。

小雨と寒気の影響で、5月にしてはかなり寒い山行だったが、古代の歴史を辿るいい一日だった。


昭和39年、まとまって出土した桜ヶ丘銅鐸と銅戈。現在は、神戸市立博物館に常設されている。昭和45年に国宝指定となり、髙羽交差点ではレプリカを見ることが出来る。有志が行政に出土地保存を働きかけているとのことで現場視察に向かう。

6年前は、このフェンスのすき間から坊主山への道がついていたが、いまは土地の所有者により塞がれてる。

新神戸変電所を右手に見ながら坂を上っていくと、(株)ランドグリーンさんの敷地に入っていく。車は通行止めだが、登山者は通行可となっている。

敷地入り口右手には、千と千尋に出てくるような石像がおいてある。その先左手の、こんもりした茂みに続く階段が坊主山への進入路だ。

階段を登ると、天和(てんな)二年、1682年綱吉の時代に建立された楠本三右衛門の墓碑がある。

楠本三左衛門は、高羽地区の新田開発の祖で、高羽の丹生神社の鳥居を寄進するなど高羽地区の開発に貢献した方とのこと。※出典:六甲歴史散歩会

坊主山へは、墓碑の裏をさらに登っていくが、なぜかチベット仏教のタルチョが張ってある。銅鐸はチベット仏教とは関係ないと思うが、ヒマラヤ等の雰囲気を出したいのか意図がよくわからない。結局、タルチョに沿って谷に向かっていくことになる。

小谷に向かって、濡れて滑りやすい斜面を下っていく。途中、なんとか出土地を周知させておきたい頑張りの案内がある。小谷は小さな流れがあり飛び越えると、以前は通れた谷の南方向に「通行禁止」の張り紙がある。

取付きには立派な案内板があるが、距離がちょっと違う。実際には300m弱あった。

濡れた落ち葉でズルズルの踏み跡を10分ほど登ると、鉄塔巡視路に合流する。進むとすぐに石柱があるので、右手に下っていくと出土地に到着する。ここにも、タルチョが張ってあった。

弥生時代は、桜ヶ丘は山の中だと思うが、当時の人がどのような理由でここに埋設したのか興味は尽きない。さすがに、二匹目のどじょうは居なかった。

出土地から坊主山の山頂までは、笹薮や倒木など結構荒れている尾根通しの道を登っていく。時折り小雨が降る中で藪を抜けるのは、どうしても下半身がびしょ濡れになってしまう。

止まると一気に冷えてくるので、頑張って登っていく。まずまずの急登をしのぐと、突然視界が広がる場所にでる。

その先には、山頂の鉄塔が見えてくる。基部を右から回り込み、髙羽道からのルートに合流し寒天山を目指す。以前はかまぼこ板の山頂表示だったが、現在は直接幹に書かれている。ここまで来ると意地だな。

山頂から北側のコルに向かって下ると、渦ヶ森への分岐にやってくる。そこから標高差100m、寒天山への階段の激登りが待っている。道端の笹には、懸命に雨宿りするベッコウガガンボがいた。

コメント

  1. 摩耶山さん歩 より:

    めずらしい
     自販機 見に行きたいです。(⌒∇⌒)

    • rokkopelli より:

      是非、最高峰を落としてください!
      高度順化(アキレス腱ストレッチ)をお忘れなく(^^)